○渡辺佳嗣 議長
 日程第7、決議第2号 学校給食に弁当の日を設けることについて(案)を議題といたします。
  地方自治法第117条の規定により大谷和子議員の退場を求めます。
      [2番 大谷和子 議員 退場]
○渡辺佳嗣 議長
 提出者の栗原昭文議員に趣旨説明を求めます。
      [16番] 栗原昭文 議員 登壇
○16番 栗原昭文 議員
 16番の栗原でございます。決議第2号 学校給食に弁当の日を設けることについて(案)を提出させていただきます。
  初めに、朗読をさせていただきます。

決議第2号 学校給食に弁当の日を設けることについて(案)

http://d.hatena.ne.jp/washimiya2005/20051203

 若干の補足説明をさせていただきます。初めに、このたび議員の皆様のご賛同を得て決議を提出する運びとなりましたことに対し、心より感謝申し上げます。なぜ決議という形になったかということにつきましては、その背景、経緯、理由等、これまでの一般質問と本決議案でおわかりいただけたことと思いますが、細く説明をさせていただきます。そして、学校教育課長からは、学校評議会、教育委員会、校長会、給食センター運営協議会等の意見を踏まえ、17年度末までに結果をまとめたいとの非常に前向きなご答弁をいただきました。ありがとうございました。17年度末までにということは、半年の期間しかありません。具体的スケジュール等をお聞きしていないので、何とも言えませんが、結構きついと思われます。
 そこで、今後の各機関での検討をいただくに当たって、どのような方法でこの問題を取り扱ってまとめていかれるのかわかりませんが、この提案が、これまでの常識から言えば、弁当をつくる母親の方々の理解を得ることが一番難しく、なおかつ重要であります。なぜ私がそのような状況の中で、あえてこのような形をとるかについて、前もってご理解を得たいと思います。
 それは、最近の子供たちを取り巻く社会情勢の中で、父親をその子供が殺したり、自分の腹を痛めた若い女性が我が子をどぶに捨てたり、あやめたりする状況を聞くにつけ、一人の人間として、また町教育行政の一端を担う議員として責任を感じ、今自分のできることを将来を担う子供のために行動を起こすことが賢明と理解しております。これまでの社会状況を見ても、子供が父親を刺したり、母親が子供をどぶに捨てたりすることは見られませんでした。今、なぜこのような現象が起こるのでしょうか。戦後60年の歴史の中で考えられない、理解できない事態がなぜ起きているのでしょうか。考えてみましょう。
 そこで、味覚を変えて、心も変えるというアメリカの女性経済学者、スーザン・ジョージ女史のお話をさせてただきます。同女史は、味覚を変えて、心も変えるという表現で、食糧帝国主義の第三者支配の手法とその仕組みを暴露していますが、日本における学校給食50年の歴史は、まさしくそれを実例として裏づけています。一般に、戦勝国による敗戦国に対する占領支配には、さまざまな内容と形態がありますが、まず教育と食糧の支配がその主要な柱となると言っております。アメリカは日本に対して6・3・3制を内容とする教育改革と、学校給食の制度的定着をもたらしました。その結果、65歳代までのほとんどの日本人が給食世代として、好みも心も変えられた人々となりました。もはや牛乳を飲んで、おなかがごろごろいわない人が多数を占めています。残念ながら、私はいまだに牛乳は苦手です。これらの現象は、長年の食生活、特に食育という言葉が生まれたように、食べることでの体質、体力、心への影響が解明不可能な病気の発生ともなり、子供たちへの影響を見逃せないところであります。
 朝食を食べない子供が多く、中央保育所でも多くの子供が腹をすかせながら保育所に置かれ、泣き叫ぶ。学校へ行く子供も、母親が寝ていて、朝食を食べないで出ていく。こういう現象は、個々の家庭の独自の問題ではあるが、保育所給食、学校給食なりで給食が出てくるということが前提となっており、給食を当てにしている結果であります。何度も言うように、食事は家庭が責任を持ってやるもので、第三者が関与するものではないところであります。戦後の食糧難時代と現在とでは、根本的に食のあり方に相違があり、比較のしようもないところであります。現在は、食事以外も含めて、食べ物はちまたにあふれており、ダイエット志向も含めて、個人の自由選択のもとにあります。すなわち学校給食の存在意義は薄れていると言わざるを得ません。給食の半ば強制的、画一的な欠点は、教育長も認めているところであり、同じものを個々の体質が異なる子供に半ば強制的に給食せざるを得ない給食制度の限界は肯定せざるを得ないところであります。
 弁当を持って来れない子供のことを考えたら、給食制度は欠くべからざるものであるとの認識が一般的で、学校教育課長も答弁でそのように言われており、給食制度を正当化しようとしていますが、先ほど来、申し上げているように、食事は個々の家庭や個人の自由選択が原則であり、ドイツでは、給食制度に対し、個人の権利を奪うものとして大反対した経過があります。弁当をつくれない理由が、経済的であろうと、女性の社会進出による時間不足が原因であろうと、これらはすべて個々人にかかわるもので、第三者には責任はないものであります。BMWを持とうが、軽四輪にしようが、個々人の選択自由があり、それぞれの生活レベルなり価値観なりに基づき選択するもので、経済的背景の理由により三者である学校がこれを補完する義務はありません。サラリーマンも、コンビに弁当の人がいるし愛妻弁当の人もおります。これらはすべて個々人の生活の問題であります。自分の腹を痛めた子供に対し母親がどう対応するかは、母親の責任であります。弁当を持ってこれない子供に対して、社会が、学校がどう対応するかは、給食とは別個の問題であります。そして、これらの子供をどうするかは個々にべつに対応を考えるべきものであります。弁当を持ってこられない子供に対しても、もし仮に友達が自分のものを分けてあげたり、他の母親がその子供の分までつくってくれたら、その子供はどう感じるでしょうか。人を助け、かばい、哀れみる心が芽生えることにはなりませんか。
 学校では、残渣をすくなくしようと子供たちに食べ物を残さないように指導し、各学年間で競争させています。子供たちは利口だから、食缶の中に戻されたものは残渣として計算されるが、そうでないものは別処理して、残渣率を下げようといった隠れた努力が見られます。これが給食制度の教育なのでしょうか。なぜ残すかという本質的問題を見えなくしており、現実より数値的なもので教育を進めることの教育のあり方の基本的問題がそこにあります。
 食べる権利は人間の生きる権利であり、何人にも干渉されるものではなりません。そこには自由選択と自己責任があり、ダイエットするか、太って物をたくさん食べるかは、個人に全く任されたものであります。学校は義務教育という中で、日本の将来を担う子供たちを健全に育てるために、学問的な見地からそれを担当しようというものであり、食べさせることは本来その範疇にありません。しかしながら、戦後の食糧難時代には、国家的見地から、またアメリカの占領政策の一環として学校教育制度は導入されました。この制度、少なくとも日本が経済の復興を果たし、海外の国々への援助を開始した時点で見直されるべきものであり、そのチャンスを失し、放置されたことによる結果が今日の不幸を招いたものと言えます。このような観点から、現在の社会情勢において、子が親を刺すという悲しむべき事態に対し、責任を感じて提案するものであります。
 最後に、私の一般質問の再質問に対し、教育長はその答弁の中で、私の一面的な物の見方によるものだと終われました。また、学校給食法では、学校給食が実施されるように努めなければならないとの法的規制があるからと言われていますが、学校給食法は奨励法であり、義務法ではありません。要するに、奨励はするが、実施しなければならないとは規定しておりません。勘違いをされているようですが、一番基本的なところで誤りを犯しています。それおを例証する必要があります。すなわち、過去において学校給食法の一部を改正する法律案が出されております。そして、現在の第4条を次のように改めるとして、学校給食の実施、第4条、国立または効率の義務教育諸学校の設置者は、当該義務教育諸学校において学校給食を実施しなければならない。実施しなければならない。第4条の2として、私立の義務教育諸学校の設置者は当該義務教育諸学校において学校給食を実施するように努めなければならない。実施するようにするように努めなければならない、というものでした。廃案になったと思いますが、国立または公立校は実施しなければならないという義務法であり、私立校は実施するように努めなければならないという奨励法であります。現在の学校給食法は、まさしく実施するように勤めなければならないというもので、改正案で言えば、私立校の場合と全く同じであります。すなわち現在の学校給食法は、奨励法であり、義務法ではありません。給食はやらなくてもいいのです。実際に学校給食をしていない学校が全国的に結構あることをつけ加えておきます。
 例えば、神奈川県下の各市町村での中学校の給食実施状況を見てみると、完全給食が13.2%、ミルク給食が51.9%、未実施が34.9%となっています。これは、平成14年5月1日現在です。また、政令指定都市での給食実施状況は、完全給食56.1%、ミルク給食19.0%、未実施が24.9%となっています。これは、平成16年5月1日現在です。横浜市では、親子のきずなを深め、家庭との連携を図る手だての一つとして、家庭からの手づくり弁当を持参することを基本としてきました。また、中学校の時期は、体格、食事量など個人差が大きくなるため、画一的な献立より、個々に応じた昼食の法が望ましいと考えられることから、弁当持参を基本としています。また、生徒の安全性、生徒や保護者の利便性を高め、昼食の選択肢を広げる機会にもなることから、中学校における業者弁当の販売を行っています。平成11年度のモデル試行実施以後、順次拡大し、現在では145校中110校で業者弁当販売が実施されております。これは、平成16年8月25日現在であります。
 なお、鷲宮町で平成11年度から14年度まで実施された、おおとり体験講座合宿通学体験でのそのときの参加者の子供たちの感想が広報にも載っておりましたけれども、お母さんの大変さがよくわかった、お母さんが大変苦労しているのがよくわかったというふうな感想が非常に多くありました。これに対し、教育長のコメントは、「参加者からは口々に、買い物や料理、清掃など共同生活を送って勉強になった。次代を担う子供たちの自立を促すために、私たち大人や地域が考えて実践していく大事なことを教えてくれた事業となりました」ということでございました。私には、この点、非常にわかりにくいのではありますが、教育長がコメントするだけではなく、このことをもとに教育最高責任者として、また唯一その実施権者である教育長が、これからどうするかがその仕事ではないでしょうか。
 以上で細く説明を終わりますが、要するにこの問題は子供たちの問題であって、大人たちの理由で左右される問題ではありません。言うなれば、子供のためか、親のためかということであります。子供たちのためにどうしたらよいのか。金がなくても千恵を出して、子供たちの幸せを、将来を考えるべき問題であります。教育基本法にある個人の尊厳を重んじたら、食べることの自由選択を奪ってはならないと思います。
 以上で補足説明を終わります。