○渡辺佳嗣 議長 
  提出者の栗原昭文議員、答弁願います。


        [16番 栗原昭文 議員 登壇]
○16番 栗原昭文 議員  
  久保田議員さんのご質疑にお答えいたします。
  冒頭に、まずお断りしておきますけれども、基本的なところで見解の相違といいますか、考え方の相違があります。そこから出発している問題なので、今十幾つかの質問をされましたけれども、私もそんな頭はよくありませんので、今のような形で質問されるのでしたら、一般質問でも通告制度をとっているのですから、通告していただければ、それなりに十分お答えすることはできます。ただ、今のようにぽんぽん、ぽんぽんと言われても、それについてすべて網羅してお答えすることは、私としてはできません。
 ただ、一番基本的なところで違っているのは、最初にも言いましたけれども、この給食とかお弁当の問題というのは子供の問題なのです。アンケートもとっていませんというお話ありましたよね。私も、そのことについては非常に疑問に思っています。前にアンケートをとったことあるらしいのですけれども、最近はとったことがないみたいな話です。だから、給食に対して、いわゆる教育委員会がどういうふうに考えているかということも、反証的にこのことについて余り関心がないのかなと。私も、だからその点は疑問に思っています。だから、アンケートがでていないから私がどうのこうのということはありませんけれども、私はこの問題は心の問題である。だから、先ほどアメリカの経済学者のお話をしたように、食育という言葉が出たのはなぜかと言ったら、それは心までも変えてしまうから。なぜ親を刺すかといったら、そういう心に知らないうちになっているのです。あなた方も給食世代で育ったわけですよね。自分が現在あるわけです。だけれども、その現在を自分で否定することなんかできませんよね。それはそういう世界で歴史的に生きてきたわけですから。ですから、そのことを私は否定はしません。だけれども、今までこの戦後60年の家庭の中で、こんなひどい次期があったかといえば、これは私は、偏見かもしれませんけれども、アメリカの占領政策がまさに成功したということであります。日本人総ばか時代駅弁大学をつくって、すべて高学歴を求めて皆が塾通いをして、昼間は学校で義務教育を受け、夜はまた塾に行って、かえってくるのは10時。きのうかおとといの新聞に出ていましたけれども、英国人にそういう話をしたら、あきれて口がふさがらなかったといいますか、そういう話も行っていますけれども、私自身もなんで義務教育というそういう家庭の中で勉強していって、夜また何で学校のほかに塾に行かなければ勉強が追いつかないか。それはなぜか。そういうことも考えなければいけない。
 給食の問題だけに限って言えば、今久保田さんがいろいろ質疑したことに対して、私は全部答えられます。答えられますけれども、ただこの場面であなたがぽんぽんぽんと自分で質問を用意して言って、私が筆記したとしても、十分それに対応することはできません。それは、一般質問の通告制度というのが・・・・
        [何事か言う人あり]
○16番 栗原昭文 議員 
  黙っていなさい、あなた。発言中だ。
        [「答弁をください」と言う人あり]
○渡辺佳嗣 議長 
  おたがいにやらない。
○16番 栗原昭文 議員 
  答弁しているのです、だから。これが答弁ですよ。基本的にこういう問題は、給食という制度が、いいですか、戦後の食糧難時代に生まれたのです、昭和29年に。だから、国もやはり義務教育という制度の中で、子供たちがひもじい思いをして勉強できないのではいかぬから給食制度を採用したのです。私も、昭和23年ごろでしたけれども、昼食に何を持っていったかといったら、一握りの大豆をいったものでした、昼食が。大豆をいったものです。そういうものを食べていた時代に、やはり給食制度というものを国はやらざるを得なかった。だから、その時代はそれがその適したやり方といいますか、国としては当然やるべきことを義務教育の過程の中に取り入れた。そのことは間違っていないのです。ただ、今のようなこのような豊かな時代に、物の豊富な時代に、食べ物が何でもある時代に、学校給食をやらなければならない理由がどこにあるかということが問題なのです。
 久保田議員の一つ一つの質問に対して答えても構いませんけれども、多分親御さんの意見とかいろいろ聞いて、反対だというふうにおっしゃっていますけれども、それは親御さんの理由です。子供たちがどうなってもいいかどうかということを親が考えるべきであって、時間がないとか、経済的負担がふえるとか、そういうことは関係ないのです。子供は自分で産んで育てるのですから。食べ物を食べさせるというのは、これは当たり前でしょう。3度の食事を家庭が、親が準備して食べさせるのが、これが基本ですよ。それをやらなければ子供は育たないでしょう。学校給食でそれを補完するというのが、そもそも食糧難時代で、家に行っても何も食べる物ないから、それをやったのです。そういう時代はそういうふうなことをやることは、まさしく非常にいい考えであったのです。だから、アメリカのそういう占領政策にも乗っかったのです。いいですか。ですから、今ここで一つ一つお答えするのは構いませんけれども、一番基本的には、この問題は子供の問題であって、親の問題ではないよと。だから、もしどうしてもあなたがこの質問に対して全部答えてくれというのなら・・・・
        [何事か言う人あり]
○16番 栗原昭文 議員
  では、順次メモを見て、思いつくところだけを答弁しておきます。
  保護者の意見は聞いたか、いつ聞かれたかということですが、これは私の、これからもしあるとすればやる仕事だし、本来はこれは教育委員会がやるべき問題です。ということは、私がこういう提案をしたわけですから、これに対して校長会云々の機関のほかに当然PTAも含まれると私は思っております。ですから、これは私もそういうチャンスをつかまえて意見を聞きますけれども、公式には教育委員会の対応すべきものと。
 それから、2番目に、使命を終えたということは、先ほど申し上げたように、もう食糧難時代を過ぎて、これだけの裕福な時代、何でもある時代ですから、もう学校で給食をする意義はないよと。だから、学校給食法の中にそういうことが書いてあったとしても、それはその時代にそういうふうに考えたのです。だから、昭和29年の法律をそのままずっとほっぽらかしてあるところが日本の、やっぱりほかの法律も含めて問題なのです。やっぱり世の中が変わっているのに法律が変わっていないところが問題なのです。
 それから、半ば強制的だということ、自由選択が得られないというふうなことを行っていました。これは、先ほどもちょっと言いましたけれども、何でこれが問題かというと、教育長もあるところでおっしゃっていました。要するに、たしか総合学習のところだったと思いますけれども、義務教育を終えて社会にでたときに自主性というものが失われると。だから、総合学習的なものを学んで自主性を磨くのだと。自主性を豊かにするのだと、そういうことなのです。給食は何で問題かというと、ちょっとほかのところの例を申し上げますと、先ほどの神奈川県のところでもちょっと言ったからおわかりだったと思ったのですけれども、要するにこれは北海道の十勝の陸別という小学校、中学校の話なのですけれども、ここの教育長が、学校給食を行わない理由について、貧困児童への栄養補給という給食の役割は終えたと。親が愛情を込めてつくった弁当を食べることで、親子の会話ときずなも生まれる、家庭で食を考えるきっかけにしたいと、こういうことを言っています。これは別のところの話です。
 これが一例ですけれども、要するにおおとり体験講座でも教育長がコメントしているように、子供たちは母親の大変なことを見て、親の背中を見て育つのです。反面教師なのです。だから、それで親が大変だ、だから私も手伝う、そういう心が生まれるのです。だから、私から言わせれば、現在は豊か過ぎて、子供たちは何をしていいかわからないのです。だから、ある人が言ったように、日本がもしこういう時代を脱却するためにどうしたらいいかといったら、貧乏になるしかないと言ったのです。ですから、私は、助け合う心とかお互いに相手を哀れむとか、そういう心が生まれるのは貧乏だとそういう気持ちが起きるのです。相手が苦しんでいる、助けを求めている、そういうときにこそ、相手の気持ちがわかるのです。それがだれも皆、満足して不自由なく暮らしているから、困っていない。そうすると、相手の気持ちなんてわからないのです。だからこそ、弁当を持っていくということは母親が大変なことなのです。それを見たら、子供は、ああ、お母さん、こんなに大変、朝早く起きて、私のために弁当つくってくれていると。ここに親子の愛情、きずなが生まれるのです。だから、私はそう行っている。だから、基本的に心の問題を考えないと、制度的な問題だけで親がどうの、女性の社会進出がどうの。私は、女性の社会進出、否定していませんよ。いっていいのです。だけれども、昔だって同じなのです。昔だって母親は4時半に起きて、かまどのへっついに火くべて、それでたらいで洗濯して、それでなおかつ子供に弁当つくって出しているのです。そういうことやってきたのです。今は電気がま、電気洗濯機、何でもありです。そんなこと言ったら、時間なんかいくらでもありますよ
 それから、食中毒の問題ですけれども、これは弁当だったら一体学校の責任になるのか。これは家庭の責任ですよね。そういう弁当というのは、朝つくって、昼食べるのだから、そのことをカウントしてどうしたらいいかということなのです。だから、これは学校の責任ではないし、個人の責任です。ましてや、そういうところに人間の主観とか選択性とか、そういうものが生まれてくるわけです。今の子供は、きのうもダイエーの正面の入り口にマウンテンバイク、子供の乗るのが並んでいて、出てこないのです。ポストの前にみんな置いてある。こういうことはなぜ起きたかというと、相手が困るということがわかっていないですよ。悪意はないのです。それは、やはり皆裕福だからそういうことがわからないのです。相手が困るということがわからないのです。そういうことを給食の中で、今までは逆に教育として生かしてきたが、これからは弁当でそういうことを生かすことが私は必要だというふうに思います。
それから、給食法が奨励法か、義務法かという問題については、これは明らかに奨励法であって、ほかの法律も奨励法と義務法とあります。やらなくてもいいという、そういう法令です。
 それから、弁当の日の割合ですけれども、これは私は何もこだわっていません。今のこういう経過の中で、それなりの社会が厚生されているわけですから、それを一挙に破壊するということは考えていません。ですから、弁当の日を設けることで、それはつきに2度か1度か、あるいは週1かということを取り入れていきながら、皆さんがそういうことに目覚めていただければいいなというふうに思っています。
 学校給食の意義とか、教育の意義については、先ほど来申し上げましたから、いいと思います。それから、母親、母親と言って、男性が出てこないというけれども、私は余り言いたくないのです。なぜかというと、男女差別とか、平等ではないではないかと言うけれども、男と女は基本的に生まれながらにして全く別のものです。私には子供産めません。久保田さんには子供産めます。だけれども・・・・・
        [「でも、育てる義務は一緒でしょう」と言う人あり]
○16番 栗原昭文 議員
  だから、育てる義務は親も一緒にやればいいでしょう。私は、個人に言っていませんよ。
        [何事か言う人あり]
○渡辺佳嗣 議長
  お互いに発言をしないで、整理して、答弁を聞いてからもう一度。
○16番 栗原昭文 議員
  では、黙って聞いてください、答えているのだから。答えなくていいというのなら答えないよ、もう。幾らでも答えますから。
 片付けの時間がどうのこうのと言いますけれども、食べる時間が35分から50分の間の配ぜんの時間、それから後片づけの時間あります。実際食べる時間は、多くて15分。一番問題なのは、あなたは配ぜんでお互いに助け合う心が生まれると言ったけれども、そうではないのですよ、現実は。今の子供は先生の言うことなんか聞かないのです。先生が、早くやりなさい、食缶の中から入れなさいと言っても、やらないのです、食事当番が。そうすると、待っている人はいつまでたっても食べられないのです。待っているのです。先生は、早くやれ。言うこと聞かないのです、男の子は。そういうことが、逆に言えば、あなたが考えているような頭の中だけの時間ではないのです。現実はそうなのです。それを先生が指導しても、今の子供はいうこと聞かないのです。だから、おくれてしまう。だから、食べる時間なくなってしまう。
 それから、少子化の問題とか、そういう問題については、先ほどの男女共同参画の問題と同様に、これはすべての人間に責任があることであって、母親が特にというわけではありませんけれども、大部分のやはり家庭では母親が食事をつくっているのが普通ですから、そういっただけの話です。助け合う心とか、友達に分け合う心が、ありがとうという心が生まれるかどうかは、これはやってみないとわかりません。なぜかといったら、さっき言ったように、あなた方はすべて裕福な時代に育っているから、そういう気持ちが生まれません。 それから、保護者の負担がふえるというけれども、保護者の負担は特にふえるわけではありません。もともと食事は自分たちが自分たちのお金でつくって食べるものなのです。それを町が1億円、今負担してやっているということが財政の負担にもなっているわけです。それは、だから昔のように国がやらなければ物を食べられない時代はそれでいい。今のように何でもある時代に、町が1億円も毎年負担してやる必要はない。
 大体答えたと思いますけれども。


○渡辺佳嗣 議長
  昼食のため暫時休憩いたします。

        休憩 午後 零時 02分